珠城りょうの幼少期エピソードまとめ|3歳から水泳のスポーツ少女、水泳部の廃部から宝塚との出会いまで

プールから舞台へ(イラストはイメージです)

元宝塚歌劇団・月組トップスターで、現在は女優として活躍する珠城りょうさん。凛とした佇まいの原点は、意外にも「水泳選手を目指していたスポーツ少女」時代にありました。本人のインタビューで語られた幼少期・学生時代のエピソードをまとめます。

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3歳から水泳、「自分に負けたくない」スポーツ少女

愛知県蒲郡市出身の珠城さんは、3歳くらいから水泳を始めました。最初はヘルパー(浮き具)をつけて泳ぐところから始まり、やがて選手コースに進んで、大会にも出場していたといいます。

「練習をして上達していく、記録が出ることに達成感があった」と本人は振り返ります。水泳だけでなく、バスケットボール、ハンドボール、走り高跳び、創作ダンスまで経験したスポーツ少女で、「自分に負けたくないというのが結構強くて」という言葉通り、自分の記録と戦い続ける子ども時代でした。

本人いわく、「だから宝塚とか、芸能の仕事を今自分がしているのが不思議なんです(笑い)」とのこと。実家は海の近くで、魚介がおいしく刺身が大好きだったとも伝えられています。

水泳選手の夢が、進学先の「女子水泳部廃止」で閉ざされた

将来は水泳選手を目指していた珠城さん。ところが、中学校への進学の年に、その学校の女子水泳部が廃止になってしまいます。

同級生や関係者と一緒に水泳部の存続を訴えたものの、願いはかないませんでした。進学した中学校は全員が部活動に参加する決まりがあり、珠城さんはハンドボール部に入部。放課後の部活のためにスイミングスクールにも通えなくなり、「水泳熱」が少しずつ冷めていったといいます。

一方で、始めてみたハンドボールもすごく面白く、夢中になっていきました(ハンドボール部では主将を務めたと紹介されています)。本人は「あのタイミングで女子水泳部がなくなっていなかったら水泳選手を目指していたと思うし、多分今の自分はここにいない」と語っています。夢の断絶が、結果として次の夢への入り口になったわけです。

中学2年、「宝塚」が地名か団体名かも知らなかった

運命が動いたのは中学2年の頃。通っていたバレエ教室(友人の発表会を見たことがきっかけで始めたと紹介されています)には宝塚好きの人が多く、「宝塚」という言葉が飛び交っていました。でも当時の珠城さんは、「地名なのか、団体名なのかも知りませんでした」。

そんな中、宝塚観劇バスツアーのチラシを目にして、母と一緒に参加。実際に舞台を見たら「はまってしまった」といいます。やりたいことが全部、宝塚の方へ振り切れた瞬間でした。

音楽学校は3度目の挑戦で合格、「ラストチャンス」の覚悟

宝塚音楽学校の受験は、決して一発合格ではありませんでした。3回目の受験で、ようやく合格をつかみます。

「落ちた時はすごく悔しくて。3回目を受ける時は、ラストチャンスのつもりでした」。歌は習ったことがなかったため、受験を決めてから声楽を習いに行ったとも伝えられています。

この負けん気の土台は、幼少期からのスポーツ経験でした。本人は、宝塚も体力勝負の世界だったからこそ、「幼少期からスポーツをやっていて、体の土台があったのはよかったし、精神的にも"自分に負けない"ということで頑張れた」と振り返っています。

水泳部がなくなった日の悔しさも、2度の不合格の悔しさも、全部が月組トップスターへの道につながっていた――そう思わせる幼少期エピソードでした。

参考リンク

※水泳・水泳部廃止・バスツアー・3度目の合格など主なエピソードは、日刊スポーツのインタビューでの本人の発言に基づきます。出身校やハンドボール部の主将、バレエを始めたきっかけなど一部の情報は、学歴まとめサイトの紹介内容です。

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